【学びの時間】死ぬまで自然体① 老いを味わうために

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あれやこれや読んでいますが、今回はこの本を読んで、

自分の往生際が見えてきた気がします。

 

これまで、ピンピンコロリがいいなと思っていましたが、

そうでもなさそうです。

 

そもそもピンピンコロリって、どんな死に方でしょう。

脳溢血とか心筋梗塞とか、発作的な病気で死ぬことでしょうか?

それだと、本人がOKであれば、それでいいのでしょうが、

残った人たちにとっては、なんともいたたまれないでしょう。

 

老衰で死ぬのがいいと思いますが、それだとピンピンジワリになりますね。

 

老衰というのは、ほとんど目にしなくなりました。

今時、ほとんどの人が病院で死ぬという現実があります。

病院で死ぬと、死因に病名が付くのが普通でしょう。

 

老衰は安らかに死ぬという感じですが、

病院で死ぬと、死はつらいもののように思えます。

 

そんなことも考えながら、どう死ぬかについて考えてみます。

 

大事なことがいくつかあります。

  • 人は必ずいつかは死ぬ
  • 事故死するとか突然死がない限り、「老い」は避けられない
  • 「老い」は「病気」ではない
  • 医療が発達して、簡単には死ねなくなった

 

” 苦しみながら生き長らえるより、安らかに「枯れる」ように死にたい "

そう思います。

 

そのためには、自分の命は、自分以外の人に委ねたくない、

" 自分の往生際は、自分の意志で決めたい "

と思っています。

 

私は、定年退職後、健康診断を受けなくてよくなって、

のびのび、イキイキ過ごしています。

今の仕事でも健康保険証はいただいていますが、

健康を受けるつもりはありません。

健診を受けない理由は、これまで何度か書いてきました。

たとえば、これです。

定期健康診断を受けない私② 自分のことを知っているのは自分 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)

 

この本にも、健診を受けると、医者の餌食になるとも書かれています。

そのポイントは、次回以降にするとして、まずは、

基本的な考え方のところを引用してみます。

 

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病院では、最後まで何かと処置をします。

いや、しなければならないところですから、「自然死」はありません。

在宅における死も、ふつうは病院医療を引き継ぎますから、

ほとんどの「自然死」はないといっていいでしょう。

また、医者のほうも、何もしないことには耐えられないでしょう。

しかし、それは穏やかに死ぬのを邪魔する行為なのです。

ですから、ほとんどの医者は、「自然死」を知りません。

だから死ぬのにも医療の手助けが必要などと言い出すのです。

 

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本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。

不具合のほとんどは老化がらみですから、

医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。

昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。

ところが、「年のせい」を認めようとせず、

「老い」を「病」にすり替えます。

なぜなら、「老い」は一方通行で、その先には「死」がありますが、

「病気」なら「回復」が期待できますから。

 

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現代は、ストレス過剰の時代です。

成人の多くは、心身ともに疲れているでしょう。

生活が健全ではないので、生活習慣病になります。

生活習慣病は病気ではないので、薬を飲んでも治りません。

生活習慣を変えるしかないのですが、そんなに簡単ではないですね。

そんな状況では、健診の数値がいいはずもなく、

それによって、医療とかかわることが日常になってしまうと、

生活習慣病を薬で治そうとするし、

自分の健康を他人に委ねてしまいがちになるでしょう。

 

年をとると、そんな状況から解放され、

ストレスも少なく、生活習慣もより健康的になるはずです。

そうなれば、何も医療にかかわる必要はないはずなんです。

 

まっとうに老いるということの第一は、健康体でいるということですね。

そのためには、

食生活に気を配り、楽しく感謝して生活し、適度な運動をする、

さらに持論を言えば、若い世代と交流すること、だと思います。

 

話は変わって、私の死に場所についてですが、

あるとき、何かのワークショップのときにでてきた、

「一面の菜の花のあるところ」がいいなと思っています。

そこには、小さな女の子が登場します。

その子にお話をした後、記憶がなくなるのです。

 

これを書きながら思うのは、

それは現実の場所ではないかもしれないなということです。

そんな夢うつつで逝くのかもしれません。