【学びの時間】前のめりな社会

 

【学びの時間】味わいことばノート 特別編 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)

この中で引用した言葉が、この本の中にあります。

『「待つ」ということ』(鷲田清一著 角川選書)

 

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待たなくてよい社会になった。

待つごとができない社会になった。

  • 待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せして、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。
  • 待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。
  • 待てど暮らせど、待ち人来たらず、…。

誰もが密かに隠し持ってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、

じわりじわり漂白されつつある。

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さらに引用します。

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  • プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、
  • 見込みはプロスペクトとである。
  • 計画はプログラムを作ると言いかえることができる。
  • 生産はプロダクション、約束手形はプロミッソーリ・ノート、進捗はプログレス、そして、昇進はプロモーション。

なんと「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。

これはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に

「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)

がついてできた言葉である。

順に、「前に・投げる」「前方に・作る」「前を・見る」「先に・書く」

「前に・引き出す」「前に・送る」「前に・進む」「前に・動く」…。

すべてが前傾姿勢になっている。

あるいは先取り的になっている。

そして、先に設定した目標のほうから

現在なすべきことを規定するという形になっている。

こうした前のめりの姿勢だから、じつのところ何も待ってはいない。

未来と見えるものは、現在という場所で想像された未来でしかない。

未来はけっして何かが起きるかわからない絶対の外部なのではない。

その意味で「プロ」に象徴される前のめりの姿勢は、

じつは「待つ」ことを拒む構えなのである。

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言われてみると、会社で仕事をしているとき、

「プロ」尽くしだったなと思います。

前のめりの会社人生でした。

 

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待つことには、偶然の(想定外の)動きに期待することが含まれている。

それを先に囲い込んではならない。

つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、

それが「待つ」にはかけられている。

ただし、みずからを開いたままにしておくには、

閉じることへの警戒以上に、務めが要る。

「待つ」は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。

「待つ」は偶然を当てにすることではない。

何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。

予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りに行くというのではさらさらない。

ただし、そこには偶然に期待するものはある。

あるからこそ、何の予兆も予感もないところで、

それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。

その意味で「待つ」は、

今ここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、

そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、

きっと待つことすらできない。

いや、待つなかでひとは、

おそらくそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。

何も希望しないことが、ひととしての最後の希望になる。

そういう地点まで。

だから、何も希望しないという最後の希望がなければ

待つことはあたわぬ、とこそいうべきだろう。

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「待つ」とは、何も希望しないという最後の希望をもって、

自分を開いたままにしておくということなんですね。

難しい!

 

「かつては、待つことはありふれたことだった」と著者は言います。

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子どもが何かにぶち当たっては失敗し、泣きわめいては気をとりなおし、

紆余曲折、右往左往したはてに、

気がついたらそれなりに育っていたというような、

そんな悠長な時など持てるひとはいなくなっている。

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みみっちいほどせっかちになったのだろうか…。

せっかちは、息せききって現在を駆り、

未来に向けて不快前傾姿勢をとっているようにみえて、

実は未来を視野に入れていない。

未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、

いったん決めたものの枠内で一刻も早く、その決着を見つけようとする。

待つことより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。

ちょっと前に決めたことの結果である。

決めたときに、視野になかったものは、最後まで視野に入らない。

頑なであり、不寛容でもある。やりなおしとか修正を頑として認めない。

結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。

待つことは法外にむずかしくなった。

意のままにならないもの、どうしようもないもの、

じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちは、

いつか無くしたのだろうか。

偶然を待つ、

じょぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつ喪ったのだろうか。

時が満ちる、機が熟すのを待つ。

それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか…。

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これは、なるほどなと思えます。

 

ケータイのなかった時代は、それほど昔のことではありません。

当時の待ち合わせはたいへんでした。

すれ違いもありました。

カーナビやグーグルマップや乗換案内のなかったつい先日のような時代には、

地図や時刻表をもって苦労して目的地にたどり着いていました。

そんな時代のことを、もうはっきりとは思いだすことができません。

 

みんなが前のめりに生きていて、時間に追われて生活しています。

私の世代は、まだケータイもカーナビも乗換案内もない時代を知っています。

だから、もういいや、前のめりはやめて立ち止まって見ようと思えます。

 

『わたしの心のレンズ』(大石芳野著 集英社インターナショナル新書)

にこんな言葉がありました。

Not stop thinking, but stop to think.

私の世代の人は、「こうしよう!」と気づけます。

しかし、不便だったころのことを知らない世代、

動画を早送りで見る世代の若者たちは、

このまま前のめりに生きていくのでしょうか。

フィジカルな姿勢も、スマホ片手に前のめりです。

 

最近の若い人たちは、出世欲や金銭欲も薄くなったと言われます。

その意味では、特に仕事関係で、

時間に追われるということはないのかもしれません。

しかし、情報に追われることで、

生活の時間を切り詰めてしまっているように思えます。

 

さてどうすればよいのか?

それはわかりません。

自分が、Not stop thinking, but stop to think. するしかないでしょう。