『教えから学びへ』(汐見稔幸著 河出新書)より
- アクティブ(active)は能動的、活動的、その反対語はパッシブ(passive)で受動的という意味
- パッション(passion)とパッシブ(passive)は同じ語源
- パッション(passion)は、感情、情熱、激情という意味に加えて、イエス・キリストの受難という意味がある。
- パッションは、世界からの迫害や差別に対して、逃げずに受け止める。反抗するのではなく、しっかりと受け止めるというポジティブな態度。
さらに、こう続いていた。
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私たちは言葉によって世界を認識していますが、
瞑想は言葉や概念から解放されて、そのままに世界を感じることです。
認識の世界から離れて物自体を感じる。(中略)
それはまさに、世界に対してパッシブに身を委ねていく感覚でした。
頭のなかに自分がつくった世界で、意図的に何かをしようとするのではなく、
感覚からあれこれと思考を巡らせるでもない。
さりげない雲の動きをぼんやりと眺めて、
言語化できないままに、その世界に自分が同化していく。
森のなかを歩いていて、木漏れ日が見えたときに思わず立ち止まる。
世界から与えられる情報に、わが身を寄せていくような感覚です。
命をつかさどる世界を感じるままに自分がいる。
そのような体験から、アクティブとパッシブというのは、
アクティブが能動的でパッシブが受動的という
単純なことではないのではないかと思うようになりました。
つまり、アクティブは大脳新皮質、パッシブはより深いところにある
感情や本能をつかさどる大脳辺縁系や
生命の維持に関わる脳幹などが活性化している状態だと私は考えています。
本来、「学び」の場面では、どちらの脳も働かせなければなりません。
能動、受動という形では分けられない。
それが人間の本当の望ましい学びのあり方、情報処理のしかただと思います。
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今日も朝からぼーっとしている時間はなく、それなりに活動的ではあったものの
それは、その時にふと思ったことをやるという状態だった。
アクティブというより、パッシブな行動だったのではないかと思う。
コロナ禍で過ごしてきた週末は、大体いつもそんな感じなのである。
午後は、本を読んだりしていたが、
ふと、雨が降る前に散歩に出ようと思ったので、
いつものようにカメラとiPadを持って歩き始めた。
とりあえず、拝島駅辺りまで歩くと、
今日は普段あまり行かない方向に行ってみようと思った。
拝島駅の北側は福生市、玉川上水に沿って牛浜方面に歩くと、
そこには「水喰土(みずくらいど)公園」という変わった名前の公園がある。
さほど大きくはないけど、こんもりとしている。
この写真は、ちょっとわざとらしいが、セルフタイマーをかけて撮ってみた。
公園は、青梅線と八高線に挟まれた三角形の場所にあるので、
私の左手を、青梅線の電車が数分おきに行き来し、
右手を、時折八高線の電車が通る。
電車の音が聞こえるので、そちらを見ると、
それぞれの車両が走っていくのが見える。
そこにずっと座っていたわけではなく、ゆっくりと歩いてみた。
30分くらいその公園にいて、ぐるっと回ったり、行って戻ってきたりした。
特に何があるわけではない。
それでも、小さな発見はあるものだ。
最初通ったときには気づかなかったが、2回目に反対側から歩いてきたとき、
ポツン、ポツンと咲いている小さな花を見つけた。
この場所だ。
白いものに近寄ってみると、こんなにも可憐で美しい。
PictureThisによると、ヤグルマカッコウという名前だ。
森のなかを歩いていて、小さな命の輝きを見つけてふと立ち止まる。
そんな感じなのである。
別の場所になるが、テントウムシやハナムグリもいた。
何か気になって目を向けると、そこにはかわいい命があるのが見える。
フタモンクロテントウというテントウムシだと思われる。
決してアクティブではなく、パッシブな活動、著者の言うことがわかる気がした。
長年、左脳優位で生きてきたため、右脳のお休みモードが解けていない。
そんな自覚がある。
このパッシブな感覚、大事にしていきたい。
お散歩花図鑑(14)
セイタカアワダチソウも、よく見るときれいだね。
ヤブランの花は、以前掲載たが、実もかわいい。
このハゲハゲでまばらな実のついたフォルムが美しい。
ほかの実は、何かに食べられてしまったのだろうか?