ちょっと変わった(?)人生論

ある時、ふと「人生」とは何かという問いが出てきました。

「生きがい」とは何かと同じように、

いくら言葉を尽くしても表現できるものではなさそうです。

 

「人生」とは何かを問うとき、

それは「私」とは何かと問うことと同じなのかもしれません。

 

意識上に「私」というものがあります。

しかし、人間は、意識が1~3%、無意識が97~99%とも言われています。

「無意識」に「私」はあるのでしょうか?

 

それはわかりませんが、「私」とつながっているのは間違いなさそうです。

ないとしたら、「私」は、その存在の1~3%ということになりそうです。

そうではなくて、「私」は、無意識を含む100%であるはずです。

だとすれば、わずか数%の「意識」の中で、

一喜一憂して生きる人生はもったいないです。

 

「無意識」は「潜在意識」ともいわれますが、

意識が潜在しているとは思えないので、

あまり「潜在意識」という言葉は使いたくないと私は思っています。

意識が潜在しているのではなくて、能力が潜在している、

すなわち「潜在能力」が「無意識」中にあるように思います。

 

そう思えば、人生というのは、いかに潜在能力を発揮できるか、

そのプロセスではないかと思えるのです。

 

サムシング・グレートの村上和雄先生によれば、

実際に働いている遺伝子は5~10%にすぎないのです。

残りの90~95%の遺伝子にどれだけ多くのスイッチをオンできるか、

言い換えると、潜在能力をいかに多く開花できるか、

それこそが人生の醍醐味ともいるのではないでしょうか。

 

人生とは、いろんなことをやって、

そこで得られた言葉では言い表せないものを、

無意識に落とし込むプロセスだというのが、

私が思った「人生」というものです。

 

落とし込むプロセスで終わったら、それは潜在能力の開花とはいえません。

しかし、開花するかしないかはわかりません。

開花は、あくまでも結果です。

 

人生とは、村上流に言えば、

眠っている遺伝子のスイッチがオンになるのを待つプロセス、

ともいえると思います。

 

結果に期待せず、ひたすら無意識に落としていくこと、

ひたすら、想い、考え、行動し、インプットし続けることこそ、

思いがけない時に、思いがけないものが生まれてくるという

人生の歓喜を得られる不可欠の要素だと思います。

 

人生の喜びは、考え、努力し、やり遂げたという「成功」にあるのではなく、

無意識の中から何かが湧き出してきたときに味わうもののように思えます。

 

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写真には、特に意味はありませんが、

リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、

散歩中に撮ったものを適当に貼っています。