私は、これまで、いわゆる瞑想、改まった瞑想ができたことがない。
ある形をとって、ただ、静かに呼吸を整えるって、できない。
過去、何度か、瞑想の場面には遭遇している。
まず問題は、正座以外はきちんと座れない。
正座では長く持たない。
だから、背筋を伸ばしてという姿勢をとるだけで、悶々とする。
その姿勢を保つために、四苦八苦状態。
そもそも胡坐が組めない。
どんな姿勢でもいいとなっても、頭は常に回転している。
無になろうとしなくていいという、ただ呼吸に集中するだけでいい。
でも、呼吸に集中するなんて、どうしてできるの?
だから、眠るか、意識がさえているかのどちらかしかない。
それゆえ、自らやろうという気持ちもなくて、
瞑想しようという気持ちは起こらない。
目を閉じて心を静め、無心になって想念を集中させること、
という意味での瞑想は、やりたいとは思わない。
それは本当に必要なことなのだろうか?と思ってしまう。
だからといって、瞑想をしていないとは言えない。
瞑想状態は、日常にあると思っている。
いちばんの瞑想状態は、お風呂に浸かってゆったりしているとき。
その時も、頭は回転している。
それは、意識的にではなく、無意識がそうさせている。
でも、ゆったりしていると、いろんなものが無意識から湧き出てくる。
さらに、私は最近、料理もするけど、洗い物や食器などの片づけをする。
それがある意味、日常になっている。
台所に入って、それをすると、心が落ち着いた感じがする。
あわただしく、焦ってするのではどうしようもないけど、
ゆったりと家事をすることは、心が休まるという意味では、
瞑想状態の一つかもしれないと思っている。
佐藤初女さんが、私は家事をすることが瞑想、
すなわち「動の瞑想」と言われていた。
いまのSolには、それはそうだよねって思える。
そして、私は、自然に触れながら歩くのが好きだ。
ただ歩くのだが、そのとき、カメラを持って歩く。
どんな小さな緑にもいのちは宿っていて、それが美しい。
そして、そこには、虫たちも息づいている。
そんな小さな命を写真に撮る。
週に一度は、それをしている。
無意識がそうさせている。
お風呂は静かもしれないが、あとの二つは動。
ゆったりとした気持ちで動くこと、それは瞑想と同じではないだろうか。
そもそも、いまのSolには変なストレスはない。
日常が満たされていれば、わざわざ取り立てて瞑想するなんて必要ない、
しようと思ってできなければ、それがストレスになる。
そう思って、今日もまた、ただ歩いて写真を撮ってみた。
写真は、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。