「いい子」と「悪い子」を考えてみる

 
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世の中には、「いい子」「悪い子」がいるらしい。
そして、それは微妙に違うけど「優等生」「問題児」とも言い換えられる。
 
サドベリー・バレー校では、「問題児」と「優等生」が入れ替わるようだ。
『世界一素敵な学校』ダニエル・グリーンバーグ著に書かれているのは、
こんなこと。
 
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「問題児」は、問いを放棄していない子。
こうした子どもたちの尊厳を破壊し、矯正し、
ふつうの鋳型に押し込もうとしても、彼らは問いを止めない。
 
このエネルギーは、自己破壊的な行為に向かうこともあるが、
抑圧的な世界との闘いからひとたび解放されれば、
自己自身の内面世界の構築へと速やかに流れを変え、
よりよき社会の建設へと向かう、
その例は、枚挙にいとまがない。
 
この学校で困難に直面するのは、むしろ「優等生」。
教師に気に入られようとがんばるので、
この学校に来たその日から途方に暮れてしまう。
「クラスの一番」になる競争は、この学校ではまったく意味をなさない。
 
社会の犠牲者とは、「問題児」ではなく、実はこうした「優等生」。
何年もの間、外部の権威に寄りかかってばかりいたので、
自分自身がなくなってしまった。
目から光が、心の奥からは笑いが消えている。
破壊的な行動は起こさなくても、自分で建設するということを知らない。
 
こんな子どもたちにとって、自由とは恐ろしいことだ。
こうしなさい、ああしなさいと、誰も命令してくれないのだから。
 
サドベリー・バレー校では、「退屈」の大量投与で、
時間はかかるが、本当の絶望から立ち上がり、
自分なりの生の枠組みを作り出そうという気力が生まれる。
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「いい子」「悪い子」は、だれにとって「いい子」「悪い子」なのか?
「問題児」「優等生」は、だれにとって「問題児」「優等生」なのか?
 
子どもは、一番人間らしいのではないかと思っている。
長年、外部の権威に寄りかかっていて、自分自身がなくなってしまった、
目から光が、心の奥からは笑いが消えてしまった大人の価値観で、
子どもが評価されてしまっている。
 
そういう見方をすれば、子どもはみんな問題児だと思う。
その問題児を、大人の価値観で無理やり押さえ込もうとすれば、
本当の問題児になってしまう。
 
優等生は、一概には言えないが、
小さいころから大人の価値観に合わせ、大人の期待に応えようとすると、
将来、問題児になるリスクがある。
破壊的な行為に走る場合と、
自分の力で生きていくことがむずかしい場合があるだろう。
 
それに、子ども本来の「自然な問題児」であればいいけど、
虐待や行き過ぎたしつけにより、
また、親の愛情を十分得られなかった「問題児」もある。
そんな問題児をなくしていくのは、やはりコミュニティの力だと思う。
 
「いい子」「悪い子」「問題児」「優等生」
というレッテルを貼らないようにするためには、
大人の考え方を変えていく必要がある。
これもまた、コミュニティの力だと思う。
 
最近出会ったサドベリー・バレー・スクール、
デモクラティック・スクールとしての広がり、
それは、本当に自由な学校。
 
子どもを中心としたみんなが話し合い、
合意したルールがあるだけで、あとは何をしてもいい学校。
 
これは学校という形態をとっているけど、
町そのものが学校と考えれば、「ここいまタウン」のあり方とほぼ同じ。