原人生

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またステキな2冊の本に出会いました。
 
自分の望むことでなくても、その通りにする、
つらくて苦しいことにも取り組める。
これって本当に必要でしょうか?
 
この問いは、『不登校になって伸びた7つの能力』に書かれていました。
小学一年生に入学してすぐに、「学校をやめて、帰ってきた~」以来、
小中高に行かずに、思い立って大学に行った星山海琳さんは、こう言います。
 
わたしは、必要とは思いません。
自分の望まないことは続けずに、つらくて苦しいことはやめてしまう。
それでいいと思っています。
わがまま、すてきな言葉です。
それだと肝心なときにがんばれない、と思われるかもしれないけど、
自分が必要と納得したことや、
自分にとっても肝腎な場面には全力で向き合います。
だった、怠けているわけでも反抗しているわけでもないんですから、
自然なことです。
 
私も思います。
自分の望まないことをやる、つらくて苦しいことにとり組む、
そんな必要はどこにあるのかと。
 
「ねばならない」「あるべき」というのは、
いつどこからやってきたのでしょう?
 
もう一つの本『学校を開いたら、町が人が風邪向きが変わった!』
の裏表紙に書かれていた、日本人の誰もが願い「原風景」、
この言葉を見たとき、「原人生」という言葉が出てきました。
「ねばならない」「あるべき」人生というのは不自然です。
本来自然であるべき「原人生」が歪んでしまっているのが
現代だと思えるのです。
 
もっと自然に行こうよ!
そういいたい気持ちです。
 
海琳さんのお母さんである吉田晃子さんが書かれていることを、
少し要約して書いてみます。
 
「いちねんせいになったら」という童謡の「ともだち100人できるかな」
で、「友だちは多い方がいい」という価値観に出会う。
友だちのいない、少ない子が劣等感に苛まれる。
「みんな仲良く」の教え、損なの無理。
友だちはつくるものじゃなくて、出会うもの。
一人でいるのは問題のあることでも淋しいことでもない。
だれかといると何かを見落とすこともあるし、感性が鈍ったり
(夕焼けの色とか、雨の路面にネオンが反射してきれいだとか)、
内省ができなかったりもする。
 
私自身も、学童保育、放課後子ども教室にいると、
子どもは好きなもの同士、ケンカもしながら遊んでいて、
100人友だちがいることなんかあり得ないし、
これって価値観の押し付けだと感じます。
 
学校って、「ねばならない」「あるべき」の場、
言い方を変えると価値観の押し付けの場だと思えます。
世の中、国際的にもいろんな紛争や差別があります。
まもなく終戦記念日を迎えますが、その戦争に駆り立てたものもまた、
教育を通しての価値観の刷り込みにあるわけです。
 
もっと自然に「原人生」を生きようよ!