『からだという神様』の第2章(矢作直樹著)
「癒しの意識」と「医療」はどのように変わるのか
に、このような記載がある。
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私の個人的な感覚として、病気を「治す」という発想は、
とてもおこがましいと感じます。
医師が「治そう」と意識する必要もないのでしょう。
つまり、患者さん自身が気づいて、本来の状態に戻っていくプロセスを、
ドクターの立場でおつき合いをする、
あるいは見守ってあげるだけでいいと思うのです。
本来病気を治すのは、その方の内なる治癒力です。
それが働くように気づきを与え、スイッチを入れるのが、
これからの医師の役目だといえます。
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これを読んだとき、
- 「病気」を「子ども」に
- 「医師」を「親」ないしは「教師」に
- 「治す」を「育てる」「教える」に
置き換えて、文章を微調整すると、
ぴったりそのまま当てはまるなと思えた。
こんな感じで。
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私の個人的な感覚として、子どもを「育てる(教える)」という発想は、
とてもおこがましいと感じます。
親(教師)が「育てよう(教えよう)」と意識する必要もないのでしょう。
つまり、子ども自身が気づいて、本来備わっているプロセスを、
親(教師)の立場でおつき合いをする、
あるいは見守ってあげるだけでいいと思うのです。
本来子どもが育つ(学習する)のは、その子の内なる生きる力です。
それが働くように気づきを与え、スイッチを入れるのが、
これからの親(教師)の役目だといえます。
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「生を受けたものには、生きる力がある」
そして、「すべてのものには寿命がある」
これは、「宇宙(自然)の摂理」だなって思う。
寿命があるものに生きる力があるのは、
それは、途方もない長い間生き抜いてきたからということ。
この先さらに書いて、考えが発散し、飛び過ぎてしまった。
こんなこと書く予定じゃなかったのにというのが、
正直なところだったので、その部分は、ちょっと別にしておいて、
もうちょっと考えてから改めて書くなりしてみたいと思っている。
ただ、ちょっとだけ書くと、宇宙の摂理というか、
自然の理(ことわり)を忘れてしまったのは、
生きとし生けるものの中で、人間だけだと思えるということ。
「人間は考える葦である」という有名な言葉がある。
その意味は「デジタル大辞泉」によるとこうなっている。
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パスカルの「パンセ」の中の言葉。
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。
しかしそれは考える葦である」として、
人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、
思考する存在としての偉大さを言い表したもの。
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このなかに「偉大」という言葉があり、
これは驕りからきていると思えた。
現在の人間は、弱さを忘れ、偉大という虚構に酔っているのだと。
自然のうちで最も弱い < 思考する存在としての偉大さ
最近大災害が起こるたびに、弱さを感じることになるが、
基本は、調和するというより、闘う姿勢で、
自然に向き合っているとしか思えない。
この本は、昨日、学童保育の「てらこや おはなしのじかん」に読んだ本。
ことばは少ないけれど、自然と調和した人間の生活は美しい。
こんなことが出てきたのも、
今ちょっとだけかじっている
「チェンジ・ザ・ドリーム・シンポジウム」
への向き合い方が問われているのかもしれないのかな?
過去の状態に戻ることはできないし、それがいいとも思えない。
しかし、今は行き過ぎているし、このままいくと大変なことになる。
であれば、どうしたらいいかを常に意識して、
ひとりひとりが、前に進んでいけばいい。
そのつながりが、何かを生み出してくる。