マズローの5段階欲求説では、
「承認欲求」が満たされないと「自己実現欲求」は満たされないので、
永遠にそれは満たされないだろうと思えてしまうが、
はたしてそうなのだろうか?
『さよなら、ストレス』辻秀一著に、こういうことが書かれてる。
---------(以下要約)--------------------------------
辻氏いわく、人間の欲求には3つの「たい」がある。
- 結果の「たい」: 勝ちたい、儲けたい、うまくやりたい、手に入れたい、成し遂げたい
- 行動の「たい」: 旅行したい、シュートを打ちたい、食べたい、寝たい、観たい
- あり方の「たい」: 「○○でありたい」と表現したとき、自分自身にとってしっくりするものであれば何でもいい
- 辻氏にとっての「あり方のたい」は、自由でありたい。
- 私にとっては、満たされた状態でありたい、幸せでありたい、自然体でありたい、かな。
「結果のたい」と「行動のたい」は、
マズローの「社会的欲求」「承認欲求」に相当する。
それは、認知的なエネルギーなので、これで終わりということがない。
- いつでも勝てるわけではない
- いつでも寝られるわけではない
- 勝ったとしても、また勝たねばならない
- 旅行したとしても、また旅行したくなる
だから、欲求が満たされて終わることがない。
一方、自己実現欲求とは、
- 生まれながらにして、すべての人が持っている生きる尊厳
- すなわち、人間としての根幹的な欲求
なので、下位要求が満たされてはじめて、これが満たされるとなると、
ほとんどの人が、自己実現欲求を実現できないということになってしまう。
そこで辻氏は、この図のように、
自己実現欲求は生まれながらにして持っているものなので、
ほかの4つの欲求のいかんにかかわらず、常に存在している
と言われている。
「あり方のたい」は、マズローの自己実現欲求に相当し、
その達成いかんにかかわらず、
そうありたいと考え続けることに価値がある。
- いつでもどこでも「○○でありたい」と考え続ける
- 「○○でいたい」というのは行動を伴う概念なので、あり方のたいとは違う
- すなわち、「自由でいたい」ではなく、「自由でありたい」
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これは、なるほどそうだと思えても、「あり方のたい」は、
「社会的欲求」「承認欲求」が満たされていないと、
持ちづらいのも確かだと思う。
会社人を卒業し、社会人として生きようとして、
いまそれなりに「あり方のたい」は持てている
と思っている自分自身を見てみると、
基本的には、それなりに社会的欲求や承認欲求は満たされてきた
ということも事実としてある。
その結果としてあるのか、たぶんここに書いたことだと思えるのである。
このテーマは、もう少し、考えて書いてみる必要がありそうだ。