「壁の花」で生きる

「私は何者?」

に、ここ1-2か月、向き合う状況がいくつかありました。

 

これまで、夢や、その夢に向けた行動、すなわち、

ドリマの「夢を叶える1-2-3の法則」の

2と3にフォーカスしてきましたが、

1の「自分を知る」をおろそかにしてはいけないと思い、

これまでにない自己開示のブログを書くことにしました。

 

【育自のための小さな魔法】でも、Part.1の「自分を知る」で

毎回同じではあるのですが、何度もタイムラインを描いてきました。

そこでは、ある出来事とその影響で変わった自分を表現しました。

しかし、「私は何者?」という本当の自分には、

触れていなかったのです。

 

最近クリアに見えてきた私が行く道は、

近ごろ何度も書いているように

「子どもたちを育むを通して、みんなが幸せになる社会」

です。

 

今やっている「学童保育」、「ドリマ先生」、「PIECES」、

そして少し対象が違う「育自の魔法」は、どれも、

それを私がやることで、

  • どんないいことがあるのか
  • だれが幸せになるのか
がクリアだから、自分はなぜそれをやりたいのか?
が肌で感じられるのです。
 

私は、ファシリテーション塾で、連続6期学ばせていただき、

そして最高の居場所運営にも携わってきました。

今の私があるのは、その二つの活動と

そこに関わっている方々のおかげだと心から思っています。

それだけではなく、かなり幅広く

さまざまな人たちとのご縁も大切にしてきました。

 

そんな中で、苦手なことや、居心地の悪いことも

体感することも多々ありました。

そのおかげで、私の中で見えてきた、

また、導かれてきたと感じられることがあります。

 

その結論に触れる前に、もう少し掘り下げます。

 

 ”人はみんな、それぞれ違うんだ”

という、ある意味あたりまえのことを

肌で感じることができたのは、学童保育に行き始めてからです。

小学校低学年の子どもたちは、素の自分をさらけ出すからです。

それを見ていると、

私自信も違うよな、それも、大きく違うよな

と改めて思うわけです。

 

小さい頃から、自分で積極的に会話をリードすることができず、

また会話にも入っていけず、もっぱら聞き役でいました。

それでも、そんな場にはいつもしっかりいました。

”自分はそれでいいんだ”と思っていたからだと思います。

 

なぜ、会話に入っていけないのか?

 

それはほとんどの人が興味があると思われること、

さまざまなテレビ・芸能関係ネタにまったく興味がないのです。

いまでも、誰もが知っている芸能人を、ほとんど知りません。

そのほか、みんながいいという事や物の多くに、

いつも?マークがついていました。

正直に、それはおかしいというと、場がしらけます。

 

実は、会社勤めでは、そんな経験は何度もしています。

自分を主張すればするほど、疎外感を感じるのです。


言ってしまえば、まじめで意固地な自己中。

 

ただ一つだけはっきり言えることは、

そんな私でも、違和感や苦手意識はあったとしても、

会社を離れた、いわゆるサードプレイスでは、

居心地が悪いということはなかったのです。

それは、受け止めてもらえたからだろうと思います。

 

もう一つ自己開示をします。

音楽は嫌いではないけど、ほとんど興味がないのです。

音楽を聴かずにずっと育ってきました。

ほとんどの人が、音楽がいいと言いますね。

私も、学生時代とか友だちの影響でレコードも買い、

コンサートにも行き、ディスコにも誘われましたが、

それらが、楽しいと思ったことは一度もありません。

カラオケもお付き合いでしましたが、仕方なくでした。

だいたい、歌を知らないのですから。

 

音楽に乗り切れない自分を、最近特に何度も感じ、

無理することはやめよう、自分に正直になろうと、

そんな中で思ったのです。


ディスコで、「壁の花」ということばがありました。

女の子なら、その存在だけで、花になります。

一方、男は「壁のシミ」と言われました。

 

最近多くの人の間では、

QUEENのボヘミアンラプソディが話題になっています。

私も「観ました?」と聞かれることもありますが、

返事は「いいえ」で終わりです。

私にとっては、「それ何?」なんです。

QUEEN、名前は聞いたことがありますが、

見たことも、まともに曲を聴いたこともありません。

 

私は、過去もずっとそうでしたが、

無理して、人に会わせる必要はないと思っています。

だから、会社では協調性がないという評価がありました。

一時期、楽器など音楽のできる人が

うらやましいと思ったこともありましたが、

今はそんなことは思いません。

 

違っている自分があるからこそ、

役に立つことが山のようにある、

これからは、もっとそれを大切にしていこうと思っています。

 

立岡里司という自分は何者だったのか?

正直、よくわかりません。

 

SOLという自分は何者か?

それは、これから創っていくものなのだろうと思います。

 

SOLになった今、会社の論理では働きたくはありません。

だからこそ、どんなに小さくても、

人のため社会のために役に立ちたいと思っています。

 

そして、ここ数年薄々感じてきて、

いまはっきり肌感覚でいえることがあります。

これから、SOLを活かしていくためには、

「SOLはひとりひとりに寄り添う伴走者である」

これだと思っています。

 

一堂に会した多くの人に関わるファシリテーターというより、

そちらの方が、自分だと思えるのです。

壁のシミではなく、「壁の花」の生き方なのでしょう。

 

その人、その人に寄り添うことで、

いろんな花になれるといいな、と思っています。

 そんな花になっても、太陽のように暖(温)かく!

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