不自然さ

自分の未来を語るから、ちょっとわき道に逸れます。

「人間らしい豊かな人生を生きる」とは何かというと、「本来の自然さを取り戻す」ということです。

本来人間は自然なものなのに、社会が不自然になるにしたがって、個々人も不自然になってしまっていて、本来の自然さを忘れてしまっているのではないかということを常に感じているからです。

 

会社に行くと、それを強く感じるのです。

私の会社は、丸の内の大手都市銀行などが入っている最先端の高層ビル内にあります。

オフィスフロアの最下層の6階に、そのビル全テナントの共有ラウンジや喫煙ルーム、コンビニがあります。

かなりの広さがあるラウンジですが、お昼時には席が全くなくなります。

ゆったりしたソファ、仮眠のできるようなチェア、テーブル席、窓に面したカウンター等々、すべてです。

完璧に横になっているか、ソファに完全に身を投げ出して寝ている人だらけ。

ほとんどすべての人が、一人で寝ているか、一人で食べているか、一人でスマホしているか、そのどれかです。

だから、席取り競争が熾烈です。

10時くらいにその場所に行くと、見た目ガラガラなのですが、寝られるソファやチェアには何か物が置いてあります。

 

公共のスペースのこの状態を見るにつけ、虚しい、悲しい気持ちになります。

スマホの画面をのぞきこんで歩いている人が多くいますが、それは公共の場で独りよがりの振る舞いをしていると言ってもいいのではないかと思っています。

このラウンジも同じです。それぞれが、そうせざるをえない状態になっている、追い込まれているのでしょう。

「独りよがり」の他に、孤独、疲労、過労、余裕のなさ、辛さ、働く目的、人生の目的、幸せとは? そして「不自然」という言葉が思いつきます。

そういう状態になる原因はいろいろ考えられるし、私の思いもつかないこともあるかもしれません。

どんな理由があるにせよ、そういう状態はしかたがないことなのでしょうか?

サラリーマンという働き方、タフな仕事、楽じゃない通勤がなければ、その人たちはどういうお昼の過ごし方をしているでしょうか?

 

サラリーマンって、人類の歴史からすると瞬きのような短さなんですね。

ほとんど戦後の産物のようなもので、サラリーマンの常識というのは、本来の人間の常識とはかなり違うと思っています。

要は「不自然」なんです。

 

昨日の最高の居場所第100回記念ライブは違いました。

そこは安心安全の場であり、自分の居場所がある場です。自分の居場所とは、人とつながり楽しむという、人との良い関係性で成り立っています。決して、席取りした自分の不可侵の居場所ではありません。そういう居場所が、丸の内のオフィスにあるようには見えないのです。

会社も、「たから」の人財と口では言いますが、ほとんどが業績第一主義です。会社に都合のいい人が「財」なのです。

 

しかし、時代を逆戻りさせることができないのも事実ですし、世の中は急には変えられません。そうしようとすれば、想いのある人ほど疲弊してしまうでしょう。

このような不自然な社会で、どうしたら人々が自然に暮らせるようになるのか、常にそういう問いを持っています。

 

もっと自分を大切にしてほしい、自分が健康で幸せと感じられるようになってほしいと思っています。

そういう想いがあっての「人間らしい豊かな人生を生きる」なので、そこをもう一度考えて、自分の未来について想いを巡らせてみます。