『さよなら、ストレス』辻秀一著に
欲求の3つの「たい」という興味深いことが書かれていた。
それを考えてみる前に、触れてみたいのが『北風と太陽』の寓話。
---------------------------------------
北風と太陽が彼らの力について言い争っていた。
議論ばかりしていても仕方がないので、勝負をしようという話になった。
最初の勝負は、旅人の帽子をとることだ。
はじめに、太陽が旅人を照りつけると、
旅人は日差しを避けようと帽子を深くかぶり、
けっして脱ごうとはしなかった。
今度は、北風が思いっきり強く、ビューと吹いた。
すると、旅人の帽子は簡単に吹き飛んでしまった。
次の勝負は、旅人の上着を脱がすことだ。
はじめに、北風がありったけの力で、ビューッと吹きつけた。
しかし、旅人はふるえあがって、
着ものをしっかり両手で押さえるばかりだった。
今度は、太陽が旅人を照らした。
すると、旅人は上着を脱いで、気持ち良さそうにのびをした。
-------------------------------------------
自然に起こることに、いい悪いはない。
北風の太陽も、それぞれの役割として必要だから存在しているので、
それを勝負させるということ自体がナンセンスだと思っている。
これ、なんだか現代社会を象徴している気がする。
そもそもが、帽子と上着とでは意味が違う。
この旅人は、必要だから帽子をかぶっているのだから、
それを脱がしてしまうのは、完全なエゴだと思う。
だから、帽子を飛ばしたからと言って、北風の勝ちとは言えない。
もう一度、同じことをするなら、その人は必死に飛ばされないように、
帽子を握りしめるだろう。
それは、自分の意志で動くのではなく、
無理やり強制されて動かされるのとでは、
その人のあり方において、気持ちのよさが全く違う。
そもそも、その人は帽子を脱ぎたいとは思っていないのだから。
一方、上着については、北風はまたパワハラ的に脱がせようとしている。
太陽は、ある意味何もしていない。
ただそこにあることで、環境が変わった。
暑くなったから、自分の意志で、その旅人は服を脱いだ。
だからといって、私は北風が悪くて、太陽がいいとは思っていない。
北風も、太陽も、自分のあり方として行動しただけ。
それを勝負と捉える見方がよくないのである。
世の中には、自分の感情や都合優先なパワハラな人がいる。
人がやっていることで、自分がイライラする、
自分に厄介なことが降りかかる、
それを避けるために、力でそれを排除しようとする。
それは、相手が自分に随うように強制するということ。
これは、力(地位)関係が下にしか通用せず、上には、逆に媚びる。
自分がこれだけしっかりやっているということをアピールする。
そのために、さらに下にはパワハラする。
そんな人は、自分が育つ過程で、
家族や人から承認されたことがほとんどなかったのではないかと思える。
だから、承認欲求が強すぎて、
ある意味自然に、そういう行動をとってしまう。
最近、身近にある人を見ていると、そう見えて仕方がない。
マズローの5段階欲求の「承認欲求」「社会的欲求」が
満たされていないので、「自己実現欲求」も満たされていない。
その人を見ている限りでは、「承認欲求」が満たされないと
「自己実現欲求」も満たされないとすれば、
永遠にそれは満たされないだろうと思えてしまう。
それでは、かわいそう。
今そういう言い方をしているけど、
実際に一緒にいると耐えられないのも事実。
きっとその人には背景があると思えても、
生理的に嫌なので、早くいなくなってほしい、
そうとしか思えないのが、これまた人間。