しばらく時間がたつと、
このタイトルで何を書こうと思ったかが、
覚束なくなってきてしまいました。
まずは、きっかけとなった本のフレーズを引用し、
想いを確かめていきたいと思います。
『見える学力、見えない学力』(岸本裕史著)
という本からです。
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昔の親たちは、あまり教養もありません。
学歴と言ったら高等小学校が上限です。いまの中学2年です。
学力もそう高くはなかったでしょう。
しかし、人間として生きていく力は、ちゃんと身につけていました。
その力は、おもに家庭で養われえたのです。
「百姓は勉強なんかせんでもええ。勉強した奴は、へりくつ言うだけになる」
と頑固なおじいちゃんは言っていました。
農具を使った後、洗いもせず放っておくと、
ものすごく叱りつけられたものです。
親たちは、百姓として生きていくための技術や知識、
それに百姓魂といったものを、直接わが子に伝えていったのです。
子どもは、学校で習うことよりも、
親なり、近隣の大人や青年から学んだことのほうが、
生きる上で糧となったのです。
親は、字義通りの教育者であったのです。
教育の手段は労働でした。生きた教材は田畑にいっぱいありました。
子どもは、労働を通して、その人格を鍛えられていったのです。
人間らしくなっていったのです。
むかしから、よく遊び、よく仕事をしたもので、
自殺などした例はめったにありません。
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昔に戻るのがよいとは言えません。
しかし、これを読むと、
- 何のための教育なのか?
- 人間として生きるということは、どういうことか?
という問いに、向き合う必要性を感じます。
①で書いたように、サラリーマン時代、
- 私のやっている仕事は、人の役に立っているのか?
- はたらく目的とはなにか?
この問いに、納得の得られる答えが見いだせなかったのです。
- そのために受けてきた教育とは何だったのだろうか?
いまは、そうも思います。
学童保育に行くようになって、
子どもたちに何かあったとき、
私はその対応方法をまったく知らないことに
改めて気づかされました。
人間らしくなっていないということ、
屁理屈で生きてきた、
私はそう感じています。