屁理屈な社会だな②

しばらく時間がたつと、

このタイトルで何を書こうと思ったかが、

覚束なくなってきてしまいました。

 

まずは、きっかけとなった本のフレーズを引用し、

想いを確かめていきたいと思います。

 

『見える学力、見えない学力』(岸本裕史著)

という本からです。

 

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昔の親たちは、あまり教養もありません。

学歴と言ったら高等小学校が上限です。いまの中学2年です。

学力もそう高くはなかったでしょう。

しかし、人間として生きていく力は、ちゃんと身につけていました。

その力は、おもに家庭で養われえたのです。

 

「百姓は勉強なんかせんでもええ。勉強した奴は、へりくつ言うだけになる」

と頑固なおじいちゃんは言っていました。

農具を使った後、洗いもせず放っておくと、

ものすごく叱りつけられたものです。

 

親たちは、百姓として生きていくための技術や知識、

それに百姓魂といったものを、直接わが子に伝えていったのです。

子どもは、学校で習うことよりも、

親なり、近隣の大人や青年から学んだことのほうが、

生きる上で糧となったのです。

 

親は、字義通りの教育者であったのです。

教育の手段は労働でした。生きた教材は田畑にいっぱいありました。

子どもは、労働を通して、その人格を鍛えられていったのです。

人間らしくなっていったのです。

 

むかしから、よく遊び、よく仕事をしたもので、

自殺などした例はめったにありません。

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昔に戻るのがよいとは言えません。

しかし、これを読むと、

  • 何のための教育なのか?
  • 人間として生きるということは、どういうことか?

という問いに、向き合う必要性を感じます。

 

①で書いたように、サラリーマン時代、

  • 私のやっている仕事は、人の役に立っているのか?
  • はたらく目的とはなにか?

この問いに、納得の得られる答えが見いだせなかったのです。

  • そのために受けてきた教育とは何だったのだろうか?

いまは、そうも思います。

 

学童保育に行くようになって、

子どもたちに何かあったとき、

私はその対応方法をまったく知らないことに

改めて気づかされました。

 

人間らしくなっていないということ、

屁理屈で生きてきた、

私はそう感じています。

 

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