とかくに人の世は住みにくい - ひとつのケーキ -

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エピソード③

 

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わが家の娘と息子が、小学生の低学年のときでした。

娘が友だちの家からもらってきた一個のケーキを、母親が半分こにして二人に食べさせていました。

それを見てわたしは、二人に聞きました。

「なぜお母さんは、”半分こにしなさい”と言ったのか?」と。

娘は、「弟がかわいそうだから」と答えました。

息子のほうは、「この次、ぼくがもらってきたとき、お姉ちゃんに半分あげるから。」と答えました。

「それは違う。」とわたしは答えたのです。

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*ここからは引用ではなく要約。

 

この場合、どうするか?

A. 半分こする。
B. 一人が食べて、一人が食べない。
C. 二人とも食べない。

 

圧倒的多数が、Aを選ぶだろう。

しかし、現実の日本社会のあり方は、Aではない。

企業が経営不振になり、半数の社員しか雇えなくなった。すなわち、二人に一人分の仕事しかない。どうするか?

企業は当然、Bを選び、一人を解雇する。リストラという名目で。

 

「布施」とは

Aのように、1つのものを半分ずつ二人で食べるというのは、布施の考え方でもある。

半分こにするにしても、

”自分が半分恵んでやるんだぞ、感謝しろ”

という思いがあれば、そのケーキはおいしくない。

”二人で一緒に食べたほうがおいしくなります。どうか私と一緒に食べてください。”

という気持ちをもったとき、それが布施になる。

 

 むしろ、仏教の教えとしても答えは、Cとなる。

二人とも食べないということは、その一個のケーキを捨ててしまいなさいということではない。

そのケーキを仏壇に供えると、それは仏さまのものになる。その時点で、姉のものではなくなり、そして姉弟は、仏さまから、そのケーキをいただくのである。

姉が弟にやるのであれば、弟は姉にお礼を言わなければならない。

しかし、仏さまのものをいただくのであれば、二人がそろって仏さまにお礼を言うことになる。

これが本当の布施だと思う。

 

その背後には、すべてのものは仏さまのものだ、といった考えがある。

かつて父親が給料を仏壇に供えたのも、自分が稼いだ金だといった意識を捨てて、生活費はすべて仏さまからいただいたもの、と認識するための行為である。

 

そうすることによって、わたしたちは

「仏に生かされている」

といった気持になり、仏に感謝する生活ができる。

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これだけ書いてきて、やはり、「とかくに人の世は住みにくい」のである。

個人レベルでは、ほとんどの人がAを選ぶのに、現代の社会レベルではBとなる。

誰もが太陽でありたいと思うのに、世間で実際に起こっていことは北風以外の何物でもない、これと同じであろう。

 

では、どうすればよいのか?

そこには普遍の解はなさそうだ。

 

SOL個人レベルで、来年も大切にしたいことは、なにごとにも感謝、そして利他の心。

そのために必要なのは、「生かされている」ということを、忘れても忘れても、思い出していくこと。

そして、あるがままの自分を大切にする。

そうすれば、あるがままの他人をも大切にできるはず。